よく失敗から学ぶと言うことを言います。これにはいくつか解釈があると思います。
一つには、誰しも失敗はつきものなのだから、失敗に落ち込むことなく、そこから学び、次回同じ轍を踏まねば良い、と言う教訓的な意味。
また、失敗を無駄にしない。失敗からも新たなものを生もうという、もっと前向きなもの。
さらには、失敗があるからこそ次のよりよい成功、あるいは成功からだけでは導き出せない別の道への道しるべといったような、むしろ積極的に失敗を肯定していこうという立場。
私は、どう考えるのも結構なことだと思います。
避けた方がいいのは、失敗に落ち込むこと、失敗から自分を否定していくこと、失敗ばかりする自分を責めることだと思うのです。
人間には様々なタイプの方がいるので、「非常に不幸な人生こそ我が望む人生」という人も、数十億の中には存在するのかも知れません。でも、ほとんどの方が、なんらかの形で幸福を望んでいるはずです。
幸福の定義は人によって、時によって、場合によって様々に変わってくると思います。
お金がいくらあっても愛情が手に入らないと考えている人は、愛情を得ることが最大の幸福になると思いますが、愛はあってもお金が無い場合には、「お金さえあれば」と思っている人も大勢いるはずです。同様に、才能であったり、名声であったり、人望であったり、多種多様な要素が、人や時に応じて幸せの要件になると思います。
さて、失敗によって自分を責めたり、自分の無能を儚(はかな)むという行為は、どんな場合でも幸せに続く道ではありません。
仕事でミスをする、遅刻をする、人を怒らせる、様々なことで、自分に非があると考えられる対人関係の失敗から、忘れ物をする、文章を書き間違える、料理を失敗する等個人的なことまで、実のところ、この世は失敗で溢れています。
幅広く考えるなら、片付けができない、人とうまく話せないなど、失敗という言葉が相応しいかどうか曖昧な部分まで広げると、人生は、思い通りに行かないことの連続であるかのようです。
なぜうまく行かないのだろう?
時にそれは、人生そのものに対する投げかけの言葉となります。でもそれは、小さなうまく行かないこと、すなわち失敗の積み重ねそのものがある意味、人生なのだということなのです。
少なくとも、失敗というのは、長い時間かけて継続的に行われる事象であることはあまりなく、やってきたこと、あるいはやれなかったことの結果を判断するための言葉です。失敗とうまく行かないは、ある意味同じことです。
世の中こんなに失敗に溢れているのに、なぜ人はその失敗を後悔したり、自ら責めたりするのでしょうか?
それは、幸福とは何かを思い通りにやり遂げていくことなのだと、多くの人が無意識に感じているからだと思います。人間は思ったとおりに事が運ぶことを気持ちよく感じる生き物ですから。
でも実は、人間が持っている、優れた点の一つは、その思い通りに事が運ばないことを乗り越えることができるのだという点なのです。
この世のほとんどのことは、やり直しや別のアプローチで実現させることが可能です。
時として失敗は許されないと言う表現を使う時があります。往々にして仕事などではそういうことが多いです。でもそんなことはありません。その失敗をしても、地球が滅びることも、会社であればその一点だけで会社が潰れることも、まずありません。
ただ、他人の失敗を許さないという、変わった方もいます。でも実はそういう人は、それこそが人生の失敗であるということを早く気づいて、人を許すことを覚えていった方が、幸せになれるとは思います。なぜなら人を責めるのも一つのストレスですから。
失敗というのは、ある結果を出そうと思っていたことがうまく行かなかったことですから、失敗したらもう一回トライするという方法があります。それで成功すれば、その失敗はもはや過去のことです。
場合によってはやり直せないこともあります。
例えば、生放送の「言い間違い」や「テロップの間違い」。少ない方がいいですが、無くなるなどと夢のようなことを考えてはいけません。
でもこれは普通によくあるように、言い直す、訂正する。謝罪する。これで基本は終わりです。
次回は間違えないようにしよう。これがこのブログのタイトルでもある失敗から学ぶことの一つです。
それでも間違いがゼロになることなどまずありませんが。 このわずかな前向きな切替が、失敗から学ぶことの全てだと思います。その結果、次はうまく行くかも知れない。でもまた失敗することもある。人生はその繰り返しです。でもその間にうまく行っていることが必ずあるのに、人間は失敗ばかりに目がいきがちです。
これは他人を評価する時でもそうです。悪いところは目立ちます。
でも失敗したりうまく行かなかったりというのは、気づかないことも含めれば、全ての人に共通し、例外となる人ははいません。
だから失敗にめげてはいけないのです。
そしてこれが私のいいたいことなのですが、別に失敗から学ぶ必要などありません。いや、学ぼうという姿勢は尊いですが、一番いいのは失敗は忘れてまた始めるという気持ちだと思います。学ぼうとなど無理にしなくても、人間は自然にそうなるものです。
そんな遺伝子の繰り返しが、今の人類をきっと生み出しているし、人類も多くの失敗を乗り越えて今に至っています。
失敗はそれ自体が学びですから、そこから無理に学ばなくても、人はその瞬間に何かを学んでいるはずなのです。のんびり考えましょう。
2021年2月22日 12:03 AM カテゴリー: 日常のヒント
シュレディンガーの猫
このサイトの題名にもなっている、「シュレディンガーの猫」についてご説明します。
シュレディンガーというのは人の名前です。1887年生まれのオーストリアの物理学者です。この方は1926年に波動関数という量子力学の基本の方程式を考え出した方なのですが、後年この量子論について不完全な部分を指摘したのが「シュレディンガーの猫」と呼ばれる思考実験です。
量子論
量子論とは、アインシュタインの一般相対性理論と並んで、現代の物理学の根幹を成す理論です。一般相対性理論は宇宙規模の問題を、そして量子論は素粒子レベルの問題を扱う物理学です。ただこの二つの科学は、水と油のように相容れない部分があります。それでも現代物理は、この異なった理論二つの上に成り立っているのです。
では量子とは、というと、物質の根幹を成す最小単位のことです。
物質は分子からできていて、分子は原子からできていてというのはかつて理科の授業で習ったことです。私くらいの年齢だと、陽子と中性子がくっついている原子核の周りを、電子がぶんぶん回っているというイメージで、かつては学んだ記憶があります。今では陽子や中性子もさらに細かいクォークと呼ばれる素粒子からできていることが解っています。
さて、素粒子は羅列するとたくさんの種類があるのですが、まさに量子論は、この素粒子を扱う学問なのです。
量子の性質
量子の一種である素粒子は、色々と私たちが日常で体感していることと違う振る舞いをしたり、なんでやねん、という部分を持っています。まず特徴的に上げられる最初のことが、素粒子は粒子でありながら波でもあるということです。
こう書いてもよく解りませんよね。そもそも波ってなんだい?と思います。実態があるのかな?動きの事じゃね?みたいに思います。
「粒子=もの」「波=状態」のように感じてしまうからだと思います。
ただここで言う粒子と波は、それ自体と言うより、それが本来持っている性質のことです。そう考えると、粒子であることの性質と、波の性質は、自ずと違うことが解ります。
素粒子が、この全く違ったふたつの性質を持つことを証明した有名な実験があり、「二重スリット実験」と呼ばれています。
壁に向かって素粒子(例えば電子とか光子)を一つ発射します。但し、壁の手前にスリットが二つ入った板を置きます。つまり、電子が粒であれば、そのどちらかのスリットを通って、その先の壁に痕跡を残すという予想が立ちます。ところが素粒子は、どちらかのスリットでは無く、両方のスリットを同時に通り抜けることが解ったのです。ほらほら、もうなんだか解らないでしょ。
しかも、複数の素粒子を打っていくと、壁には干渉縞という模様が現れます。これは、波の性質を表すものなのです。例えば水の上に石を投げると波紋ができますが、複数の石を投げるとその波紋がお互いに干渉し合って模様(波が重なる部分と重ならない部分)を作るのと似ています。
この素粒子の不思議な性質は、私たちが体感する物質の性質とは明らかに違います。
そもそも、最初に電子のことを「素粒子」と粒子と言っちゃってますし、一つと数えられるわけなので、電子は粒子です。
ところが、その振る舞いは、あたかも波のようであるということから、素粒子は、我々が目で見える物質とは、明らかに違った性質を見せるのです。
ふたつのスリットを、一つの粒子が同時に通り抜けるというのが既に魔法のようですが、ではそれは、その瞬間、どこにあるのか?ということになります。
シュレディンガーの猫
実はここで出てくるのがシュレディンガーの波動関数です。この関数は、量子力学の範疇にある素粒子が、どのくらいの確率でそこに存在するかを導き出す計算式です。つまり、この辺りに何%、この辺りに何%あるに違いないことが解るのです。ここにある!ということが正確に解るわけではなく、確率が分かるのです。
でも、見てみれば解りますよね?「あ、ここにあったのか」って。これを波動関数の収縮と言って、「人が見ると決まる」のです。
では見る前はどうなの?どちらかにあるでしょ、と普通はなりますし、「どちらかの箱にコインが入っています。さてどちら?」の場合は最初からどちらかに入っています。当たり前です。
ところが素粒子の場合、そうではないのです。
上に書いた実験の場合、他の条件を無視して単純にふたつのスリットを通り抜ける確率と考えると、箱のどちらにコインがと同じで50%の確率で右か左を通り抜けそうですが、実際に実験を行うと、両方通り抜けてしまうのです(素粒子が当たる壁に二つの痕跡が残ると言うことです)!1個が離れたスリットの両方ですよ!!なんだかキツネにつままれたようです。
これを量子論では「重ね合わせ」というのですが、実際に我々の見えている世界ではあり得ないこういった現象(性質)が量子の世界ではありうる、と言うことが理論から導き出され、実験でも確かめられているのです。
でも、何度もいいますが、変でしょ?絶対変だ!
で、自ら関数を導き出したシュレディンガーさんは、こんな思考実験を考えつきました。
ここで細かく実際通りに書くと解りにくいので簡略化します。
箱の中に猫がいます。箱の中は見えません。その中にある条件で青酸ガスを発生させる装置が入っています。とても動物愛護団体が嫌がりそうな装置です。
さてはこの中には放射性物質が入っていて、その物質からα(アルファ)粒子という素粒子が出たときにその青酸ガス発生装置のスイッチが入ります。つまり、粒子が出たら猫は死に、出なければ生きているという状況です。
1時間で粒子が出る確率は50%だった場合、1時間後に、猫は生きているのか死んでいるのか?という、頭の中の実験が「シュレディンガーの猫」です。
見れば判るというのは普通の回答ですが、見る前にどう考えるかを問うた問題なのです。
普通は、生きているか死んでいるかのどちらかで、それが見た後に判明すると考えます。その通りです。疑問の余地はありません。
ところが、量子力学は違います。「重ね合わせ」なのです。これは、スイッチを入れる粒子が発生している場合と発生していない場合の両方が、同時にそこにあるというのが粒子の性質だからです。つまり、ガスが発生している状態と、そうでない状態の両方が同時にそこにあるのです。
曰く、猫は半分生きてて、半分死んでんじゃね?それっておかしくね?
という疑問を、シュレディンガーさんは自ら提示したことになります。
さあではこれの解決は?となりますが、残念ながら、パーフェクトに解決されてはいません。
そもそも、この問題は、量子の振るまいが奇妙で、それをコペンハーゲンのニールス・ボーア研究所というところで出された「コペンハーゲン解釈」という、量子論の解釈に基づいています。この先にあるのは多元宇宙論だったりして、SF好きにはたまらない話題への入口なのです。
このなんだか手品の種明かしがされない、理論、理屈だけで成り立っているように見える現代物理の理論は、それ故嘘くさいですが、相対性理論もそうですが、これらの計算式が導き出す理論は、裏付けの実験や観測もあり、その理論を元にコンピュータなどがそもそも動いているので、嘘ではないでしょう。
結び
ここでは、このサイトの名前の由来となった「シュレディンガーの猫」についてご説明しました。尤も、文化系の私が説明しているので、間違えがありましたら済みません。
こういう場合に下手の横好きという表現は相応しくないかもしれませんが、そんなことで今後も、時折物理の話題やら、何かを書いていきます。
量子論の最も好きな部分は、なんかいいかげんだと言うところです。世の中、きっちりしないといけないこともあるにはありますが、概ね、許容範囲は広いものの方が多い、というのが私の考え方です。このサイトは、そんな人間が運営しています。
これを書いている今日、貴景勝が大関昇進を決め、栃ノ心がそこから陥落しました。優勝を飾った白鵬は、右手を痛めました。この世は糾える縄、その根幹は、この不可思議な素粒子の振る舞いが作り上げる世の中なのだろう、と思います。
2019年3月24日 6:46 PM カテゴリー: 物理学